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スピリチャル日記3

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より良い人生を送るために、新しい人間、宇宙観を考えていこうというものです

カテゴリ:policy( 52 )

一日の間にはいろいろな想念が浮かんできます。
いいと思うのもあれば、いやと思うこともあります。
それでよかったわるかったと判断しています。

怒りの想念などはわるいことと思ってしまいます。
確かに気分のいいものではありません。
でもほとうはそうではないようです。

感情のなかの一つの想念がおこった、それだけです。
いいとかわるいとかはもともとはありません。
自我がいつの間にか価値観をつくりあげていて、それによって判断しているだけです。

それは自分のなかでは、あまりにも当たり前になってしまっていて、いままで気がついていませんでした。
怒りの感情は悪いことだと思い込んでいます。
いい気分にはなれませんが、わるいことではないということです。

そう考えるといままでは起こってきた感情で、今日はいい日だったとか、散々だったとか思ってしまっています。
それはどうも自分の持っている価値観からきているだけです。
絶対的なものではありません。

ですからほんとうはどんな感情も同じ価値があるということになります。
それにはいろいろな種類があるだけになります。
ただそのなかの一つの感情が起こったというでけです。

ですから起こってきた感情に気持ちを左右されることはありません。
ただああこんな感情が起こってきたと、みていればいいだけです。
感じたらあとはそれを手放す、それの繰り返しです。

今までは感情に一喜一憂していました。
それはやめることにします。
どちらでもいいということになります。

どんな感情が起こってきてもいいのです。
ですから無理矢理いい感情を体験しようとする必要もありません。
してはいけないといっているのではありませんが。

自然体でいいということです。
このままでいいということにもなります。
今のままでいいということになります。

本当に心からそう思えればこれは悟りということになります。
現実気分の良くない感情が起こったときは、しまったと思ってしまいますが、そうではないと思うようにします。
このままでいいのだ、と。

それでその感情を引きずらないようにします。
そしたら気分が楽になって、次の感情を体験できるようになります。
どうもいろいろな感情を体験するために、ここのいるようです。

わるい感情を体験しなければ、いい感情を感じることはできません。
悪い感情も必要なことになります。
相対世界の仕組みです。

このままでいいというのは、ほんとうみたいです。
この世界にいる限りは、いつまでたってもこの繰り返しです。
変えようとジタバタするよりも、ただ体験することを楽しむだけです。
by human-space | 2005-06-05 00:18 | policy | Comments(0)
いろいろとゴチャゴチャしたことがあって、どうしたものかと風呂の中で考えていたらふと浮かびました。
そうだ、うまくいくにきまっている。
そう思ったら、頭の中がすっと軽くなりました。

理屈はともかく、そう仮定してみます。
いつかはわからないけれども、いずれは自分の思いどおりになる。
そんなにがんばらなくても、自然にしていればいずれそうなると仮定します。

そしたらどうなるでしょう。
今を生きれるようになります。
いずれは思いどおりになるのだから、あわてることはありません。

そしたら今できることをしておこう、という気になります。
今ゴチャゴチャしていても、どうせうまくいくのだから気にすることはないや、ということになります。
そして気持ちが落ち着きます。

これ、けっこう使えます。
さっきまでのイライラがなくなりました。
外側はまだゴチャゴチャしていますが、気にならなくなりました。

あまり深く考えないでやってみたらどうでしょうか。
気がすっとしたら、OKです。
案外世の中こんなもんかもしれません。
by human-space | 2005-05-16 22:35 | policy | Comments(0)
自我が見えたわけではないのですが、自我の存在を感じました。
昨日は神経的にイライラしているという感じでしたが、今日は自我に反応して、ムカムカするという感じでした。
外からの刺激があり、それに自我が反応して、ムカムカするという感情が起こってくるという流れです。

確かに自我という何かがあって、それを通すことで、感情などが起こってきています。
それはもちろん目に見えるものではありません。
ただ間違いなくそれはあります。

それがなかったら感情というものは起こってこないのでしょう。
ですから感情はそれ次第ということです。
そこの処理の仕方で変わってくるということになります。

自我を変えれば、起こってくる感情も変わることになります。
いつもいっている内側を変えるというのは、こういうことです。
内側に溜め込んでいる思い込みををかえれば、出てくる感情も変わるということです。

理屈は単純ですね。
その思い込みは長い年月をかけてがっちりとはまり込んでいるため、簡単には変わってくれません。
毎日こつこつとやる必要があります。

私もこうやってさんざんやってきているつもりでも、自我の反応を見ていると前とほとんど変わっていません。
ただちょっと客観的に見えるようになってきただけです。
思いそのものは変わってきてはいません。

最初から霊的な思いしか浮かんでこなければ、何も問題は起こりません。
肉体を持っている限りはそうもいかないのでしょうが、ともかく自我に振り回されないようにしなければいけません。
ほんとみていればよくわかりますが、いい加減で気まぐれ、ワンパターン、批判的でカッかきやすいなどとても自我に任せてはいられません。

それでも本来はこの物質世界を体験するために必要なものです。
必要悪、といったところでしょうか。
前にもいったように、制限された状態を体験するためにつくられたものですから、うまくいかないと思える状態が正常な状態です。

このうまくいかないのが、うまくいっているのです。
うまくいく状態を体験するためには、うまくいかない状態を体験する必要があるのです。
もううまくかない体験は充分してきました。

もう必要ないです。
これからはうまくいく状態を体験するようにします。
そう意識することで、うまくいく体験をすることができます。

本来そのような仕組みなので、がんばらなくてもなれるはずです。
それを意識するだけで変わってくると思います。
もともと力は持っています。

だって神ですから。(^^;
落とし穴に落ちた体験をするために、わかっていてわざと落ちたのですから。
出てくる方法は最初から設定してあるはずです。

簡単だと面白くないので、すぐにはわからないようにしてあるのでしょうが、絶体絶命にはならないはずです。
這い上がれないような落とし穴には自らは落ちないですよね。
わかりにくけれども、仕組みがわかってしまえば簡単に抜け出れるはずです。

仕組みがわかればもう落ちている意味がありませんから。
このゲームはもう終わりだ、ということです。
次のゲームにしよう、ということになります。

こんなことをいっていますが、残念ながら抜け出る画期的な方法はまだはっきりとはわかりません。
ただ自我の思いがすべてだと思っているうちは、ゲームの真っ最中です。
周りに敵に気がいっぱいで、それどころではないでしょう。

この自我がゲームの中心人物で、それになりきっているうちはそこから出られません。
ただそれを見ている人はそのゲームから抜けているひとです。
これは間違いありません。

想念観察ができるようになれば、そんな状態になっているのでしょうか。
これはただ見てるだけです。
知識もいりません。
お金もいりません。

練習をしなくてもいいので、すぐ今から始められます。
変えるのはどのように変えるかとか、思考を使わなければいけません。
自我を変えようとするのではなくて、ただ見ているそれだけです。

ひょっとしたらこれがその簡単な方法かもしれません。
他にも方法はあるでしうが、これも間違いではないようです。
ともかく続けていきます。

うまくいく体験をするために。
人間ときは苦労してやったけど、神はこんなに簡単にできるんだという体験をするために。
by human-space | 2005-05-15 17:40 | policy | Comments(0)
目の前のことをするというのは、いつも言っています。
そして先のことは考えないといっていますが、考えないというより心配しないという感じです。
さすがに全く何も考えない、というわけではありません。

今を大事にすること、今を肯定的に考えていくことはいままでどおりです。
ただずっと今のままでいい、というわけではありません。
今はいまでいいけれども、また別のものを選択していくということです。

今が悪いので、いいように直していこうというのではありません。
別の状態に変わっていくだけです。
今の完全な状態から、別の完全な状態になっていくのです。

そこでイメージします。
自分のなりたい状況をイメージします。
先のことは心配しないようにしますが、ほんとにしたいことは考えます。

ただそれをあせって、バタバタしないようにします。
そのなり方、時期は宇宙に任せておきます。
イメージして、あとは目の前のことをやっていくだけです。

いろいろとがんばってみるのもひとつのやり方ですが、わたしはこれからはこのやり方でやってみます。
イメージしてそれを楽しみにはしていますが、やっていくのは目の前のことです。
目の前に起っていることは完全なことです。

今の目の前のことを完全なこととして楽しめるならば、別の完全な状態へはスムーズの変わっていくことができます。
今の目の前のことは不完全だと思っていて、別の完全な状態へ変わろうとしてもなかなかうまくいきません。
今完全だと思えないと、別な状態に変わっても同じように何か理由をつけて不完全だと思ってしまうからです。

別の状態に変わっても、結局同じようなことのくり返しになってしまいます。
やはり今完全だと思うしかありません。
それは実際完全なのです。

何回も言っているように、不完全だと思っているのは自我なのです。
自我の思いを変えるだけで、完全だと思うようになることができます。
それは外側を変えるのではなく、内側を変えることでできます。

それで今が完全だと思えるようになると、別の完全な状態へは簡単にいけるはずです。
そうです。
ただイメージしただけで。

ですから、まずすることは今が完全だと思えるようになること。
今が完全だと思って、ちゃんと生きることです。
これができるようになると、あとは自由自在?になれるような気がします。

まず目の前のこと。
シンプルにいきます。
あまり考えずに。
by human-space | 2005-05-07 23:25 | policy | Comments(0)
まだ頭痛が残っていたので、ちょっと瞑想しました。
これでよくなったあと、ふと思いつきました。
といっても前から言っていることですが。

人生の遠い先のことはあまり考えず(心配せず)、やるのは今目の前のこと。
自我は基本的に先のことを処理するようにはできていません。
思考を使って考えることはできますが、推測するだけなのであまり頼りになりません。

未来のことをいうときは、そのひとの意識レベルで解釈が変わってしまうので、言い方が難しです。
それを承知でいってしまいますが、もう未来は決まっているということです。
わたしの今のレベルでこう言い切ってはしまえませんが、そう考えることでうまく生きることができるので、こう表現します。

これはかなり大きな出来事のことです。
細かいことはその時の自我の状態でいろいろなことが起ってくるでしょうが、自我がどうやっていても、いずれその大きなことに行き着くことになります。
それらを経てこの人生を終わります。

もちろん異論はあると思います。
今回のような突然事故で人生が終わってしまう場合はどうなんだ、ということです。
残念ながら明確にはわかりません。

ただその場合はそうなるようになっていたんだ、というしか言えません。
わたしの場合、この考え方を押しつけているわけではありません。
私がそう思うことで、うまく生きれるので言っているだけです。
信じてもらおうとしているわけではありません。

こんなことを考えているやつがいるなあ、というくらいでみていただければと思います。
ともかく、こう考えると楽に生きることができるのです。
どうせ先のことは決まっているのだから、あわてることはないや、です。

いやそうではなく、一生懸命やればできないことはない、とがんばることを否定しているのではありません。
そうしたい人は、そうすればいいと思います。
私はただもう楽に生きたいだけです。

未来の心配はしない、です。
今目の前にあることがベストのことだと思って、今を楽しむようにする、です。
心がけるのはこれだけです。

自我はどうしても先のことを気にしていて、頭のなかに心配事が浮かんできます。
でも自我は過去のことしかわかりません。
未来ことがわかっているとは思えません。

これは自我がそういう仕組みになっているので、わからないのはしょうがありません。
未来を勝手に想像しているだけです。
ですからその心配事を真に受ける必要はありません。

自我の癖みたいなものですから、適当に受け流してやればいいのです。
ああまたいつも同じことばかりを心配しているなあ、などとです。
気にする必要はありません。

予定の行き着く先に向かうようにその気になったり、物事が進んでいきます。
それに乗っかっていくだけです。
ジタバタするよりも、そのほうが楽ですよね。

何か面白くないような気がしますが、向かう先はもともと興味のあることを設定しているはずですので、そんなことはないと思います。
行き着けば満足できるはずです。
ただ行き方が、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしたあげくに着くのではなくて、自然にやりたいことをしていれば、いつの間にか着いていたという感じです。

そんなふうな生き方をやっていこうと思っています。
目の前のすべきことや、今やりたいことをやっていれば、いつの間にか前から思っていた大きなことができていたという感じです。
何か気楽ですよね。

自我は本来そうのような役目をするようにはつくられていないのです。
少なくとも全生涯の責任を持てるようにつくられているとは思えません。
目の前のことをうまく処理して、都合良くやっていく程度の能力としか思えません。
(それが本来の役目なのでそれをやれば充分ということになります)

その自我に全生涯のことを任すよりも、この宇宙の仕組みにゆだねているほうが得策なような気がしています。
気まぐれな自我に翻弄されるのはもういやになりました。
これはもともと無理なことだったのではないかと思います。

未来のことは全くわからず、論理的に考えているようで、気まぐれな性格です。
かなり行き当たりばったりです。
頭のなかに浮かんでくることを見ていれば、これは明らかです。

消去法で自我以外に何にがあるでしょうか。
自我に任せないなら、何も考えない、というものひとつの方法です。
宇宙に任す、と同じようなものですね。(^^;

ということで、先のことは考えない、ということにしました。
考えるのは今のことだけです。
今どうしたいか、考えます。

すべきことは、今したいことか、今すべきこと。
今したいことがあって、できるようだとそれをします。
またとりあえず今すべきことがあれば、それをします。

自我にはわからないことがいっぱいあります。
今目の前のことは、そんなにしたいこととは思っていないかもしれません。
でもそれは、先に進むために宇宙がセットしてることかもしれません。

それはわかりませんが、今目の前にあることはやっていきます。
自我にはわからないことかもしれませんが、何かすべきことかもしれないからです。
この宇宙に無駄なことはないと思っています。

すべては理由があって起ってきています。
それは単純な因果の法則です。
残念ながら自我では、この超複雑な宇宙の因果は理解できそうもありません。
それなら考えず、ただやっていくだけです。

ただ自我が行き過ぎないように見張っています。
先のことを心配しすぎて今がおろそかにならないようにです。
あとは自然にしていればいいです。

人間は今を経験するようにできているみたいです。
動物はそうなっています。
人間は脳が発達して、楽しみも増えた替わりに、考えすぎているようです。

すべきことは、今目の前のこと。
そして自我を見張っていること。
これでいきます。
by human-space | 2005-05-05 16:58 | policy | Comments(0)
今日も自我の様子をみていたら、ほんとにまあ批判ばかりしています。
何かを見るたびに、批判しています。
ひとつ見ては批判、また何かを見ては批判です。

お前よくそんなに文句ばっかりいえるなあ、という感じです。
自分のことながら、あきれてしまいます。
もっと他にいうことは無いんかい、です。

どうもこれは私の自我が特別出来が悪いというのではなくて、それは自我の仕組みの問題みたいです。
自我の認識の仕組みはコンピュータと同じで、あるものが入力されると、内側にもっている記憶と照合して、どうするのか判断するようになっています。
そのとき内の記憶と同じものは受け入れられ、違うものははじき出されれる傾向があるのです。

つまり自分と違うものは受け入れないようになっています。
周りのものはだいたいは自分とは違うので、どうしても拒否しがちになります。
これもひとつの防衛本能なのでしょう。

個体を維持するのには必要なことです。
そうしないとすべてがいっしょになってしまい、わけがわからなくなってしまいます。
全体ではなく、個でいるための仕組みです。

神はもともと全能であり、すべてのものです。
そこから制限された、個になるためにつくりだされた仕組みなのでしょう。

それは見事にうまくつくられています。
まったく全能を発揮できません。
もうぼろぼろですね。(^^;

ですからいま自我は完全に機能しています。
いまの状態が完全なのです。
うまくいっていないのが、うまくいっているのです!

私の今の状態は完全ということになります。
うまく機能しているということになります。
神の計画どおりです。

といっても、その自我も進化します。
一回落ちて、また上がれます。
昨日もいったとおり、落ちた経験が無いと、上がる体験はできません。

では上がるためには、どうすればいいのでしょう。
それは最初に書き込まれた記憶を修正すればいいのです。
最初に間違た記憶が書き込まれているために、真実が受け入れられないのです。

真実が記憶されていれば、黙っていても真実でないものは受け入れられず、真実のみが自然に受け入れられるのです。
ですから今しまい込んでいる間違った記憶を真実の記憶に書き換えることです。
すべきことはそれだけです。

そうすればあとは、放っておいても自然に神でいられるでしょう。
あとは自我に任せておけばいいのです。
どうも本来は自我は悪者ではないようです。

ではどうすれば、最初の間違った記憶を書き換えることができるのでしょう。
もちろん瞑想もひとつの方法です。
深い意識状態を体験することで、その記憶を書き変えます。

あと自我を見張っていて、現実のひとつひとつの反応を修正してやります。
今自我はこういっているけど、それは古い考え方だから次から採用しないよ、などといってきかせます。
ちょっと面倒ですが、結局この現実の生活に使えるようにならないと意味がありません。

瞑想をやっていても、最終的には現実の生活でチェックすることになります。
何時間瞑想していても現実の生活が変わっていなければ、それはまだうまくできていないことになります。
そうでなければ、それはただの気分転換です。

ただその最初の記憶は硬い岩盤のようになっていて、なかなか崩れません。
ちょっとやったくらいではびくともしません。
気長にやる必要がありそうです。

人によっては、一気にできる人もいるかもしれません。
よほど意思が強いのでしょう。
これは個人差がありそうです。

ともかくひとつひとつやるしかありません。
この修正作業も、慣れてくれば自然にできてきます。
片手で車が運転できるようなものですね。

私はこれをやります。
この先に求めるものがあると確信しているからです。
というかこれしか先に進む方法はないのではないかと思います。

いくら儲けても行き着けないことは明らかです。
ただ昨日もいったように、行き着くことが目的ではなくて、その過程が目的なのです。
この寄り道が楽しみなのです。

たっぷり楽しめるように、なかなか行き着けそうもありません。(^^;
こうなれは開き直って、じっくり今を楽しんでおきます。
そのうちもうこんな思いは体験できなくなるかもしれませんから。
by human-space | 2005-04-24 17:29 | policy | Comments(0)
この世界はとても完全には見えません。
ほとんどすべてのものが、といっていいくらいです。
見るもの、聞くもの周りにあるものとても完全であるとは思えません。

ただ自然はそうではないようです。
今日もリサイクルのため庭に生ゴミを埋めていたら、横に生えていた雑草を見てふと完全さを感じました。
といってもほんのかすかな感じで、半分は思い込みかもしれません。

ともかく不完全さは人間が創り出しているみたいです。
それは頭のなかにある自我からきているものだと思います。
自我が不完全であるので、そこからつくられてきているのです。

ではその自我は誰がつくったのでしょう。
それはどうも神がつくったみたいです。
どうして完全な神がわざわざ出来の悪いものをつくる必要があったのでしょうか。

それは自分の完全さを感じたいために、わざわざ不完全なものをつくったということです。
神はすべてが完全であるために、自分では完全ということがわからないのです。
比較するものがないので、それがどれほどすごいものかわからないのです。

それで自分がわざわざ不完全なものをつくったのです。
それが自我です。
不完全なことしかできない自我をつくることで、自分の完全さを体験したかったのです。

それで今の自分があります。
出来の悪い自分です。
それはほんとに出来が悪くてそうなっているのではありません。

さっきもいったように、ほんとは完全なのにわざわざそうなっているのです。
わざと出来を悪くしているのです。
ですからほんとうに悪いわけではありません。

これはすべてのひとのことです。
例外はありません。
そうでなければ、今に存在していないのです。

必要があるから、今こうして存在しているのです。
なければ「無」です。
何もありません。

ですから地球上のすべての人はそういう存在です。
時期はまちまちでしょうが、いずれ神に帰っていきます。
その完全さを体験します。

それは必ずなります。
人間が修行して神になるのではないからです。
神が一時的に人間になっているだけだからです。

いずれは自分の計画に従って神に戻っていきます。
遅いか早いかです。
今進化している人は、もうそろそろいいかなあと思っているのでしょう。

といっても、この世界はきびしいですね。
私も完全には抜けなくても、レベルアップして楽になりたいです。
そうなるためには、これしかありません。

お金やものだけでは一時的なものです。
完全に楽になるためには、進化するしかありません。
これがこのゲームの決まりみたいです。

それしかこのステージをクリアーしていく方法はないようです。
ひとつひとつ目の前の対戦相手をやっつけていくだけです。
逃げているだけではいつまでたっても上にはいけません。

昔のやり方では同じところを回っているだけで、クリアーしているわけではありません。
新しいやり方、それは外側に対処しないで自分の内側に対処していく、というやり方です。
外側の不完全さに対して、内側を変えることで、それが不完全と感じなくしていくものです。

それは頭のなかの、昔からの古い思い込みを変えていくということです。
それを修正することで、外側の不完全さが消えます。
実はその外側のものはもともと不完全ではなかったのです。

ただ自分の思い込みのために不完全だと思っていただけです。
最初この世界はほとんどすべてのものが完全には見えないといいました。
それは自分のなかが不完全であるといっているということです。

ほんとは外側のものはすべて完全なのです。
外側のものが半分くらい完全であると思えるのなら、頭のなかも半分完全なのです。
そんな人はすごいです。
私もほとんど不完全に見えます。(^^;

それでもほんとにちょっとづつですが、この不完全さを意識できるようになりました。
不完全さのなかでもがいていたのが、その中から出て、外側からみれるようになってきました。
もちろんいつもはその中にはまっているのですが、ふと抜け出ることができるときがあるといった程度です。

これを続けていきます。
この結末を求めていくのですが、大事なのは結末ではなく、その過程です。
結末はもう得ているのですから。

神になることが目的ではありません。
もともと神なのですから。
それは達成?できているのです。

今回はその過程を体験するためにここに来ているのです。
その過程こそ目的なのです。
今です。

この今の体験をするためにきているのです。
この出来の悪さを体験するためにきているのです。
それでいいのです。

今が一番大事なのです。
これこそ今しか体験できないからです。
神になったらすべてのことがわかってしまって、もうあまり面白くないのかもしれません。(^^;;;
by human-space | 2005-04-23 16:01 | policy | Comments(2)
今日は休みで時間があったので、パソコンの前でぼーっとしているときに思いつきました。
人生は目の前に展開してくるシーンを楽しめばいいだけ。
それを自我が判断しないようにする、そんなことです。

今目の前にある世界が今の自分にとってベストなことが起っているということです。
自我からどんなふうに見えようともです。
ですからあまり考えずただ起っていることを楽しめばいいだけ、ということになります。

自我の反応はできるだけ気にしないようにします。
いろいろな感情が起ってくると思います。
それは今その感情を体験したかったということです。

今自分がそういう感情を体験したかった、それだけです。
それ以上のことはありません。
それ以上気にすることはありません。

自我の思い込みを減らして、できるだけただ体験する、ということです。
シンプルです。
自分が何かしなければ、ということもありません。

ただ今の体験を続けていく。
それだけです。
これこそが人生の本質ではないかと思います。

自我を中心にドタバタして生きていくのではなくて、どうなるかは宇宙に任せて起ってくることをただ楽しんでいく、そんな感じです。
今は自我を中心にしすぎではないかと思います。

自我の支配を減らして、自然に任せておく。
これが楽にいきる方法でないかと思います。
これからはこれでいきます。
by human-space | 2005-04-16 23:23 | policy | Comments(0)
前からちょっと思い当たることはあったのですが、きょう食後ゆったりとした時間があったので、軽い瞑想状態になったときふと思いました。
これは自分の内にある感覚です。
自分が外側のことに何とかしようとバタバタしなくても、じっとしていれば周りのほうがあってきて自然とうまくいっていく、というものです。

今日これこそが神意識ではないかと思いました。
もちろん頭の中がその感覚で満たされているわけではありません。
普段は雑多な想念ばかり浮かんできている中で、ぽっぽっと灯火のように浮かんできている感じです。

全部がこの感覚になれば完全な神?になるのではないかと思います。
神意識がちょっとずつでてきている、そんな気がします。
神はいつもこんな気持ちでいるんだ、とちょっとわかったような気がしました。

といってもいつもは古い想念に押しまくられて、アップアップしています。
昨日もテニスで試合形式の練習のときに、いつも慣れているメンバーでやっているのに急に調子が悪くなって動揺してしまい、1ポイントごとに「勝っても負けてもどっちでもいいんや」を頭のなかで連発して、何とかやりきりました。
ほんとやっとやっとです。

前に精神的に恰好よくしようとやっていたことがあったのですが、どうもそれがこの意識みたいです。
少しずつは身に付いてきているようです。
ともかく実践ですね。

この感覚が実生活とぴったり合うようにしていきます。
といっても英単語ではないので、覚えればいいというわけにはいきません。
いままでやってきたことを続けていくだけです。

神意識は元々自分のなかにあるものですから、わざわざ得ようとする必要はありません。
それを見えなくしている自我の働きを弱めてやればいいだけです。
そうすれば自然に心の表面に現れてくるはずです。

基本はこれです。
ものごとに必要以上に執着しないで、どちらでもいいんだと心を自由にしておくことです。
心をいつも忙しくしないで、ゆったりとしておくことです。

といっても現実に何もしないわけではありません。
目の前のすべきこと、興味のあること、楽しいことをやっていきます。
ただ底辺にこれがあるという感じです。

これでおぼろげながら輪郭が見えてきた感じです。
でもこの目標を目指してやっていくというのではありません。
これは結果的にこうなるだろうというだけです。

大事なのは今です。
今のこの過程こそ一番大切なことです。
今を楽しむ、これこそが宇宙の真理です。
by human-space | 2005-04-03 12:16 | policy | Comments(0)
今週は日々楽しくやろうとしてきました。
これは一回うまくいくと、味をしめてまたやろうとします。
明日もやります、といった具合です。

これはうまくいっているときはいいのですが、逆にうまくいかないとがっかりしてしまいます。
結局上がったり、下がったりとなってしまいます。
それは何かに規制されているから、それにそっているときはいいけれども、そうでないときはダメとなってしまいます。

やはり完全な平穏をえるためには、こころが何ものにも縛られないようにしておくほかありません。
何ものにも縛られていないのですから、何が起ってもいいということになります。
何があっても動揺することがありません。

つまり心がつねに自由な状態でいることです。
これを得るのには、結局「どちらでもいい」になります。
どっちでもいいのですから、それに縛られていません。

楽しくしようとするのは悪いことではありませんが、あまりにそれに固執すると問題になります。
うまくいくときはいいのですが、どうしてもうまくいかない場合もでてきます。
基本的にはこころを自由にしておくというのがいいみたいです。

ではどうしたらいいのかというと、いまはすっきりとは言えません。
まだ実戦でのデータ不足です。(^^;
やろうとしているのは、こうです。

こころの表面では例えば「楽しくやろう」とする。
ただその結果には固執しない。
こころの根底では「どちらでもいい」として、自由にしておくという具合です。

まだちょっと確立していませんが、これからこれでやっていきます。
もう上がったり下がったりはいいですから。
by human-space | 2005-04-02 14:10 | policy | Comments(0)